世界の研究所(未完成)

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以下は私が訪問・滞在したことのある研究所・大学です.( )内はその所在地, [ ]内は私が滞在した時期です.

Institut des Hautes Etudes Scientifiques (Bures-sur-Yvette, France. 略称 IHES)
[Mar.-June 1986; Oct.1989-Aug. 1990; Aug. 1995]
パリの南の郊外の非常に小さな町Bures-sur-Yvetteにある数学及び理論物理の研究所.広い敷地の中に比較的こじんまりとした研究棟,図書館,事務棟などが点在する.昼は小さな付属の食堂で多くの数学者・物理学者が食事をするが,錚々たる数学者が数学やそれ以外の話をしながら食事をしている.私は,なかなか最初は会話に加わることができなかった.近くにResidence d'Ormaille という家やアパートのある敷地もあって,大半のビジターはそこに住むことになる.

生まれて初めて飛行機に乗って外国に来たのがフランスで,滞在したのがこの研究所.修士論文でIHES教授(当時)のDennis Sullivan氏の提起した一つの問題を解決したが,日本では何の情報もなく困っていたときに,故山口昌哉先生がIHESに手紙を書いてくださり,そのおかげで大学院生の身分ながら3ヶ月間滞在させてもらった.すべてが初めてで,まわりがよくわからず苦労したが,非常に有意義であった.このときに Adrian Douady, John Milnor, Michel Herman, David Ruelle, Lai-Sang Young 氏らに初めて逢った.またこの滞在期間中に突然 ICM Berkeley (1986) に行くことにし,そこで Dennis Sullivan, John H. Hubbard, Curt McMullen, Bodil Branner, Jacob Palis 氏らに逢うことになる.2回目のときは約10ヶ月滞在した.このときは Sullivan氏やその周辺の人と話す以外にも,Orsay (Universite de Paris-Sud) のDouady氏のセミナーに出かけていった.

Max-Planck-Institut fur Mathematik (Bonn, Germany)
[Mar.-Aug. 1988]
ボンの市内のライン川のほとりにある研究所.住宅地の中にある建物一つが研究所となっている.1988年当時はドイツが東西に分かれていてボンは西ドイツの首都であったが,電車で着いてみてこれが首都かと呆気にとられたのを覚えている.それでも,その分生活はしやすい.

通常は力学系関係の人はほとんどいないが,1988年はH.-O. Peitgen 氏主催のSpecial year で力学系,特に複素力学系の関係のビジターが多かった.私が大学院の博士3年の頃,幸運にもこのプログラムへの招待状をもらい,学位授与式の翌日にドイツへ向け出発した.特に J.H. Hubbard 氏がこの期間ずっといたので,彼の研究室にしょっちゅう出入りして彼やその元学生,その他のビジターとディスカッションなどをしていた.その他, 長期・短期に来た人として,Douady, Branner, Tan Lei, Devaney, Milnorなどがいる.特にMilnor氏の場合,予告なしに突然現れたので,所長(当時)のHirzeburch氏が驚いて,自分の所長室を明け渡してMilnor氏に使わせようとしたのを覚えている.日本人のビジターもかなり多かった.ちなみに初めてMacintoshを見て触ったのもここだった.

Institute for Advanced Study (Princeton, USA. 略称 IAS)
[Sept. 1988-April 1989]
言わずとしれたEinstein, von Neumann, Godel, ... などの数学者・物理学者たちが活躍した研究所.給料,ビジターへのサポート体制,環境などどれをとっても私が今まで訪問した研究所の中で,最高のものといってよいだろう.研究分野は,数学,物理学,人文科学,社会科学の4つからなる.何人かの教授がいるほかに毎年多くのビジターを受け入れている.すぐ近くにPrinceton Universityもあり,そこにも多数のアクティブな数学者がいる.外国人のビジターに対しても免許の取り方や税金の申告書の書き方の講習や,家族のためのイベントなどがあり至れり尽くせりだった.隣接してビジターのための宿舎群があり.私の住んでいたアパートの住所は「Einstein Drive」だった.ただ一つの難点は買い物で,ショッピングセンターが遠いため,車をもっていない場合,研究所が週に何回か出すバスで,買い物に行くか,私の場合のように自転車で行くしかない.Princeton 自体が小さな町で,初めて着いたときに駅前に何もないのには驚いた.

私が大学院の博士3年の頃,将来について何にも考えていなかったが,IAS教授(当時)のJohn Milnor 氏から話があり,1988年の9月から行くことになった.このときも力学系関係のSpecial yearで,他のビジターとして,Lenart Carleson, Michel Herman, Lai-Sang Young, Michael Benedicks, Paul Blanchard, Grzegorsz Swiatek などがいた.また,Princeton UniversityにはBill Thurston, Curt McMullenらがいた.さらに,City University of New York の Graduate Center (Manhattanのど真ん中ともいえる42nd streetにある!)では Dennis Sullivan氏が毎週火曜日に講義とセミナーをもっていたので,はぼ毎週通っていた.力学系関係者の間では,「Sullivanのセミナー」というとかなり有名である.なぜ有名かというと,講演者に対しSullivan氏がしょっちゅう口を出し,彼の納得する形に言い換えさせたり,いろいろなディスカッションが発展したりするので,講演者が予定したとおりに話が進むことがほとんどなく,終わりの時間も決まっていないというものだからである.(Y. Pesin氏などは6時間も話させられたとのこと.)ダブルヘッダーのこともよくあり,私が話したときは,V.I. Arnoldとのダブルヘッダーだった.このセミナーに出席でき他のは非常に幸運で,数学の「スタイル」についていろいろと考えさせられた.Sullivan氏は当時,upper Manhattanにビジター用のアパートをもっていて,そこで時々パーティーがあったのは,懐かしい思い出である.

Institute for Mathematical Sciences (State University of New York, Stony Brook, USA. 略称 IMS)
[Feb.-Jul. 1991; July-Aug. 1998]

Mittag-Leffler Institute (Djursholm, Sweden)
[May 1992]
Royal Institute of Technology (Stockholm, Sweden. 略称 KTH)
[May 1990]

Instituto de Mathematica Pura e Aplicada (Rio de Janeiro, Brazil. 略称 IMPA)
[Jan.-Feb. 1992; July-Aug. 1993]

Nankai Instutute of Mathematics (Tianjin, China. 南開数学所,中国天津市)
[April 1992]
南開大学 数学教室

Universite de Paris-Sud (Orsay, France)
[May 1993]

Mathematical Sciences Research Institute (Berleley, USA. 略称 MSRI)
[Jan.-June 1995]

Banach Center (Warsaw, Poland)
[June-July 1995]

Japan-America Mathematical Institute (Johns Hopkins University, Baltimore, USA. 略称 JAMI)
[Oct. 1997-June 1998]

Centre International de Rencontres Mathematiques (Luminy, France. 略称 CIRM)
[May 1998]

Mathematisches Forschungsinstitut Oberwolfach (Oberwolfach, Germany)
[March 1990]

Ecole Normale Superieure de Lyon (Lyon, France) and Rencomtres mathematiques
[July 1990]

 

京都大学 理学部数学教室(京都市,日本)
[Apr. 1979-Mar. 1988, Apr. 2001-現在]
大学の学部・大学院(修士・博士)に在籍.大学院での指導教官は故山口昌哉先生と宇敷重広先生でした.今から思えば学生時代は時間がいっぱいあって,それを数学のためにつぎ込むことができて幸せだった.特に,時間を細切れにされず,一つの問題をずっと考え続けられる環境というのは,就職してしまうとなかなか得難いものである.院生時代には理学部前の喫茶店「進々堂」に毎週2回くらい行っては,一杯のコーヒーで長い時間粘っていた.修士論文を締め切りぎりぎりに書き上げたのもここだった.

東京工業大学 理学部数学教室(東京,日本)
[Apr. 1989-Mar. 1994]
助手と助教授

東京大学 大学院数理科学研究科(東京,日本)
[Apr. 1994-Mar. 1999]
助教授

広島大学 理学部数学教室(東広島市,日本)
[Apr. 1999-Mar. 2001]
教授

数理解析研究所(京都大学,京都市,日本)
[年に何回か]
所属したことはないが,毎年必ず何回か研究集会等でお世話になる.

 


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