「忘れられた科学」から「越境する数学」へ
長谷川 聖治
2011.6.5. 今を読む:科学 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

 収束の見通しが立たない福島第一原子力発電所の事故の背景の一つに、科学者、工学者の問題意識の低さ、想定の甘さがある。
 「マグニチュード9の地震は起きない」、「長時間の電源喪失はありえない」。専門家が言えば、つい信じてしまうが、こうした研究者が独善に陥ってしまうのは、分野を超えた連携が少なく、違う見方を取り入れない視野の狭さが背景にあると指摘されている。
 吉川弘之・元日本学術会議議長は、5月18日付の本紙「論点」で興味深いエピソードを紹介している。機会工学が専門の吉川さんが、原発で働くメンテナンスロボットを設計・試作し、実際、東芝が実用機を開発した。しかし、発電所の故障を前提とする技術は、「絶対安全」という思想の原発にそぐわないという理由で、使われなかった。「機械工学」は、「原子力工学」に入れなかったという。科学研究の閉鎖性は、社会に深刻な影響を与えかねないとして、「組織・分野を超えた連携が重要」と問題提起した。
 科学研究が社会と乖離してはならないという危機感のあらわれでもある。複雑化した社会では、思わぬところに落とし穴があり、それが致命的になる。福島原発事故は、期せずしてそれを示してしまったが、今こそ、文系、理系などと言っている場合ではない。異分野を融合した新たな思考体系が必要なのかも知れない。
 その融合の接着剤になろうと、頑張っているのが「忘れられた科学」とまで言われた数学だ。
 数学が、「忘れられた科学」と評されたのは、2005年に文部科学省・科学技術政策研究所がまとめた報告書。レベルは高いのに、科学技術政策からポツンと、取り残された日本の数学研究の現状がまとめられている。2000年には、論文数で、中国に抜かれ世界6位に転落、その差が年々拡大しているという衝撃的なレポートだった。しかし、その一方で、数学は産業界や異分野からのニーズは高く、技術革新、新知見に数学は不可欠であると熱いまなざしが送られた。  
とかく「変人」「つきあいベタ」と見られがちの日本の数学者も、異分野との融合を押し進める契機となった。
 北海道大では、哲学、法学などの人文科学者と数学者の共同研究が進む。応用数学の拠点にしたい意気込みを感じる。
 純粋数学研究を牽引する東京大も産業界との結びつきを深める。例えば、新日鉄と協力し、高炉の効率的な温度管理のために数学の一分野「逆問題」を応用。内部の温度を外の温度から推測する手法を編み出し、数億円規模のコスト削減につながった。
 九州大は、今年4月に産業数学の拠点「マス・フォア・インダストリ研究所」をスタートさせた。産業界の連携を唄った国内唯一の研究所であるが、それ以外にも他分野との連携を深め、純粋数学、応用数学双方の視点を持った人材の養成を目指す。企業での半年近い大学院生のインターンシップも特色の一つだ。
 欧米が数学研究の推進に力を入れる中、文部科学省も3年前から新たな数学支援に乗り出した。科学技術振興機構(JST)の先駆的な研究を支援する「さきがけ」の「数学と諸分野の協働によるブレークスルーの探索」だ。「越境する数学」とのキャッチフレーズで、渋滞解消、錯覚などの認知、生命科学などと協働し、斬新でユニークな成果が期待されている。
 一連の動きの中で、「数学者も一皮むけた」と思わせたのが、大学の数学教室に、ジャーナリストを1-2週間ほど滞在させて、研究だけでなく、数学者の人間的な側面に触れもらおうというプロジェクト「ジャーナリスト・イン・レジデンス」(JIR)だ。日本数学会が企画した。第1回は今年1月から3月にかけて、8人の新聞記者、フリーライターなどが東大、東北大、京都大、九州大などの数学者らと交流を深めた。
 その一人として、東大、東北大に滞在したが、数学者に触れて感心したのは、「頑なまでの厳格さ」と「覚悟」を持って数学研究に取り組む姿勢。何かを犠牲にしながらも、思考の世界に入り込む思い入れの強さがある。他分野と異なり、仮説が入り込む余地がない数学には、あいまい性、ごまかしはありえない。そうしたものを排除しながら、真理に向かう数学者の姿勢は、「想定外」「推測」に逃げ込む他分野の研究者から見れば学ぶことは多いと感じた。
 異分野に数学が越境していくことは、世の中の動きに疎い数学者にとってもプラスだろうが、それ以上に他分野の研究に新しい視点を吹き込んだくれるだろう。福島第一原発の事故とよく比較される、米スリーマイル島の原発事故。その事故原因の検証に当たった「米大領委員会」の委員長は応用数学者のジョン・ケメニーだった。福島原発事故の調査にも数学者の視点が求められる。